義務教育とは単純労働者の育成機関である


我々は日本人は小学校から中学校までの9年間(アメリカでは小学校から高校までの12年間)、義務教育という形で国から強制的に学校に通うことを強いられている。もともと義務教育とは、産業革命時における児童労働や、未就学児を救済するための制度であった。しかし、現代の義務教育においては、むしろ従順な単純労働者を育成するための制度と言っても差し支えないだろう。今回は学校制度の問題点と目的について、ジョン・テイラー・ガットの「バカをつくる学校」の理論を例に挙げながら考えてみる。





《従順な労働者を生み出す義務教育》

我々は義務教育において、校長をヒエラルキーの頂点とする学校という組織に参入する。学校という組織においては、生徒は教師という管理者によって支配され、集団の規範から逸脱する行動は厳しく制限される。登校時間についても、会社員と同様に決まった時間に学校に登校し、決められた時間割に従ってスケジュールをこなしている。生徒は、チャイムが鳴れば即座に現在行なっている作業をストップし、スケジュールに従った次の作業に移行する。

さらに、小学校における体育の時間では、教師(管理者)の合図と共に集団を整列させる「前に倣え」という、まるで軍隊のような隊列を作り出す教育が未だに存在している。そして生徒は「校則」によって、服装や髪型、下着の色に到るまで徹底的に拘束され、「個性」を表現することを制限されている。また、生徒は「制服」を着ることで、共同体におけるアイデンティティを統一し、生徒は組織の一員であることを教え込む。(これはまるで、日教組が最も嫌うはずの、軍隊教育のようである)

しかし、実社会においては大抵の場合、服装や髪型に制限が加えられることは無く、 過剰なまでの制限は、労働者となった際に「組織内の規律を守ること」を生徒に叩き込むためのものである。このような学校教育は特に、工場における労働と極めて相性がよい。工場労働者は予め設計された製品を、規格どおりの工程で作業をすることによって、作り出している。工場労働においては、芸術性やオリジナリティなどは一切求められず、規格から外れた製品は不良品として処分される。

また、工場労働者は決まった時間に職場に出勤し、工員を束ねる現場責任者の元で、彼らの指示に従って作業を行う。1日のスケジュールも事前に決められており、1日あたりの生産ノルマを達成するために、効率的に手足を働かせるように強制される。そして彼らは多くの場合、勤務時に「作業服」という制服の着用を義務付けられ、帽子やヘルメットを被ることで個性を消される。このように、工場労働者の生活は、義務教育における学校生活と酷似しているのだ。



《バカをつくる学校》

このような没個性的な規律を求める学校制度に対し、批判の声を挙げる人達もいる。米国ニューヨーク市最優秀教師に選ばれたこともある元教師:ジョン・テイラー・ガットは、著書『バカをつくる学校』の中で、「学校制度は企業や政府に従属する市民を作り上げるものだ」と批判している。そして彼は、学校教育にはどの学校にも共通する「七つの教育方針」があるとしている。その7つをそれぞれ見てみよう。


①パッチワークのようなカリキュラム
義務教育においては「算数、国語、体育、社会、音楽、理科、図工、避難訓練、学芸会、コンピュータ」など、まったくジャンルの異なる科目をバラバラな時間割で教えている。例えば1時間目には分数の計算を学んだかと思えば、2時間目には理科で光合成を学び、3時間目には社会で縄文時代について学び、4時間目には体育でバスケットボールを行うなど、分断された学習では物事の一貫性を学ぶことができず、専門的な知識を得ることができない・・・と彼は批判している。

しかしこれについては、私は反対の意見であり、「全ての学問は相互に関係性を持ち、連結させることが可能である」と思っている。例えば生物学を例に取っても、細胞内の機能を知るためにはイオンや分子など化学の知識が必要であるし、ダーウィンの提唱した進化論は社会思想や宗教にも影響を与えたことから、歴史や社会学とも関連を持つ。数学についても物理学はもちろん、コンピュータプログラムや美術の世界においても不可欠な知識である。あらゆる分野の学問を学ぶことで初めて、知識のネットワークが結ばれ、世界に対する全体像が見えてくるのである。

確かに義務教育においては1つの科目を極めると言った教育は行なっていないが、これは大学の専門課程や専門学校がその役割を担っている。そして我々は、さまざな学問の中から専門的な知識を1つか2つでも持っていれば、分業社会の中では十分生きていける。むしろ、複数のジャンルを組み合わせることのできる人間ほど、社会においては有利と言えるだろう。

バラバラの時間割については、1年を通じて多くの科目を学ぶ必要があり、「1学期に算数が終わってから国語」といったカリキュラムでは、以前学んだ科目を忘れてしまう危険性が高いからであろう。むしろ幼少期においては、1つの科目を連続して学ぶ方が集中力が持たず、バラバラに分断した時間割の方が効率的であると言える。一見すると一貫性を持たないように思える学校教育であるが、あらゆる体験や知識を通じて、子供は世界について学習するのであり、複数の科目をしっかりと学ぶことができれば、自分で知識を統合化することができる。

②刑務所を思わせるクラス分け
義務教育においては、子供は生徒番号で管理され、場合によっては能力によってクラスが定められている。また、学校においてクラスに同年齢の生徒しか存在しておらず、実社会のような年齢も性別もバラバラなクラスは、基本的には存在しない。また、AクラスやBクラスと言ったように、クラスを成績に応じて階級分けすることで、生徒に自らの地位を教え込んでいる・・・と彼は言う。

 これについては概ね同意であるが、クラスは1年間で様変わりする上に、1人の教師によって大勢の生徒を管理する以上、番号で管理するのは仕方がないだろう。また、義務教育が年齢によって管理されるシステムである上に、成績の評価基準を管理する上では、同年齢で構成されたクラスというのは合理的であるように思える。

③チャイムによる集中力の切断
どんな生徒にも大なり小なり好きな科目はあるはずだ。人によっては音楽かもしれないし、理科の実験や算数かもしれない。しかし、どんなに授業に夢中になったところで、チャイムが鳴れば強制的に授業が終了となり、スイッチを切り替えるように、次の授業の準備を始める必要がある。生徒はいくら勉強に熱中したとしても、意欲を削がれ、与えられたカリキュラムを次々とこなす人間となる。これは勉強に対する無気力を生むシステムであり、チャイムによる時間管理が無関心な人間を生み出す・・・と彼は主張する。

これも意図的に無関心な人間を生むように設計されたとは思えないが、チャイムによって授業に対する集中力が強制的に切断されるのは事実であるし、1時間で終了する授業では1つのテーマを徹底的に掘り下げることは難しいだろう。しかしこれはむしろ、冒頭で述べたように工場労働に適した時間管理であり、決められたスケジュールで機械のように行動できる人間を生み出す仕組みのように思える。

④教師による生徒の自由意志の支配
学校においてはクラスを教師という管理者が支配し、運営権や命令権が教師に委任されている。教師は生徒の行動や成績によって、生徒を褒めたたえたり叱ったりするなど、生徒を指導し評価している。また、ルールを破ったり問題を起こした生徒については、厳しく叱咤することでクラスの規範を維持している。これによって生徒は、教師がクラスというコミュニティの支配者であることを認識し、教師に叱られないように、褒められるように行動を取ろうとする。これは生徒が教師に対する感情的な依存を生み出し、生徒を束縛するものである・・・と彼は主張する。

これは全面的に同意であり、義務教育における究極の目的だと私は思う。冒頭で紹介した「前に倣え!」ように、教師は軍隊のように生徒を管理し、集団の規範を維持するように強制する。ルールを破った人間は罰則を課せられ、集団にとって良い行いをすれば褒美を与えられる。集団生活においてはルールを守ることは重要であるが、義務教育は幼少期から管理者の指示に従うことを強制的に刷り込ませる洗脳とも言える。

このシステムは、工場労働者や会社員を管理する経営者にとっては都合が良いかもしれないが、「与えられた指示が本当に正しいのかどうか」を考えることが何よりも重要と言える。これができない人間は、ブラック企業にいつまでも従属していたり、最悪の場合はナチス親衛隊のように、「与えられた指示を黙々と実行する」都合のよい人間になるだろう。

⑤教師に対する知的依存
生徒は教師を通じて学問を習得し、集団の規範や行動について指示を受ける。子供達が自分自身で何かを考えることは極めて少なく、管理者によって与えられた指示を黙々とこなす受け身な人間となるのだ。生徒たちが何を行い、何を考えるかは教師やカリキュラムを作成する官僚の仕事であり、学校教育においては教師に抵抗せず、従順な態度で課題をこなす生徒が優等生となる。劣等生とはこれを反対に、指示された行動やルールに疑問を持ち、自分の頭で考える生徒のことである。このようなシステムは大人になってからも、専門家の意見や管理者の判断に従う人間を生み出す・・・と彼は言う。

これも殆どその通りで、現代人の多くは自分で物事を考えることもせず、専門家とされる人物の意見を盲目的に信じている。例えば日本人の半数は、1ヶ月間に1冊も本を読まず、1ヶ月に7冊以上読む人は「3.6%」しか存在していない。彼らはテレビやインターネットの情報に対して受動的に判断し、広告代理店によって演出されたキャンペーンに踊らされ、人工的に作られたブームを自分の好みと錯覚し、集団の規範に従った生活を行なっている。

また、クリエイティビティな職業でもない限りは、自分でアイデアで何かを生み出すこともなく、管理者や設計者によって作られたカリキュラムを実行するだけである。知識の吸収や自分自身で判断することをせず、言われたままに情報を鵜呑みにする人間は、利用するのに最も都合が良い。

⑥成績によって与えられる条件付きの自尊心
学校教育においては、生徒は授業態度や試験成績によって教師や親から評価される。子供はコミュニティの支配者である教師や親から褒められる事に喜びを感じ、自尊心を得ることができる。しかしこれは条件付きの自尊心であり、成績が悪ければ叱咤され、自尊心は失われてしまう。そのため、一般的な生徒は試験においてより高い点数を得ようと努力し、自尊心を獲得しようとする。また、生徒は順位によって他人と比較され、順位の低い生徒は自尊心を喪失してしまう。しかし重要なのは「自己評価」であり、自尊心は他人からではなく自分自身が与えるもの・・・と彼は主張している。

これについては、私自身が学校で受ける授業に対して「知的好奇心を満たせたか」という基準で自己判断しており、成績を全く気にしていなかったので、教師や親からの評価で自尊心を失ったことはない(それでも平均以上の大学に進学したけど)。むしろ義務教育による問題は、成績の評価基準が「予め決められた答えや解放を暗記できたか」に頼らざるを得ないことにあると考えている。

実際の社会においては、新しい技術や商品、サービスを生み出すことによってお金と評価を得ることができる。しかし義務教育においては、既に世の中に存在している理論や公式を暗記することによって、評価の対象である試験が行われている。これは義務教育の目的が基礎理論や知識を習得することであり、新しい理論やサービスを生み出すのは、大学院や企業活動の役割であるとも言える。また、教師は一般企業に就職した経験も無く、一般的な知識のみで専門的な知識を持たないため、新しく生み出された理論やサービスに対して適切な評価をすることができない。

やはり義務教育は、お金やサービスを生み出すためのビジネス教育には特化しておらず、工場労働者のような既に開発された製品を、管理者の指示によって、決められた手順で組み立てるような人間が評価される教育システムであるといえる。

⑦相互監視と宿題による拘束
教師は学校という社会において管理者的な立場にあるが、24時間管理し続けることは困難である。しかし著者によれば、「休み時間」という制度は、生徒同士を接触させることにより、問題行為を行なった生徒を密告させるためにあるのだと言う。さらに「宿題」は教師の目が届かない家庭においても、学校における影響力を持ち込ませることができ、生徒に隠れる場所が無いことを教え込むのだと、彼は言う。

これについては、少し考えすぎなところがあると私は思う。「休み時間」については、集中力を途切れさせないための休息時間だと思うし、「宿題」については「エビングハウスの忘却曲線」に従った予習復習と、学習に対する理解度チェックという役割を持つと思う。またあまり知られていないが、「工場労働」においても「気分転換」という名の休み時間が存在する。これは人間の集中力は一定時間しか持続せず、これを超えて単純作業を繰り返すと、かえって効率が落ちるということから、作られた休憩である。工員は何十分かに一度、作業をストップして、歩き回ったり椅子に座って休憩することができる。この辺りは学校における「休み時間」に似ているかもしれない。

 《学校教育がもたらす影響》

そして ジョン・テイラーによれば、このような学校教育は以下のような人間を生み出すとしている。

①大人の世界に無関心になる
②集中力がほとんどなく、あっても長続きしない
③未来に対する認識が乏しく、明日と今日がつながっているという感覚がない
④歴史に関心がない
⑤他人に対して残酷になる
⑥親しさや正直さを拒絶する
⑦物質主義的になる
⑧依存的で、受身で、新しい挑戦に臆病になる



《ロックフェラー総合教育委員会のマニュフェスト》

また、本書においては資本家が学校制度の成立に深く関わった参考資料として、「ロックフェラー総合教育委員会」の書類を掲載している。大変興味深い内容のため、以下に引用する。

-------------------------引用ここから-------------------------

1896年から1920年にかけて、一部の事業家や資本家は、大学教授や大学研究者、学校管理者などに対し、みずからの民間慈善財団をとおして寄付や助成金を与え、義務教育に政府以上の金を費やした。1915年には、とくにカーネギーとロックフェラーの投資が目立った。こうした自由奔放主義的なやり方によって、近代の学校制度は国民の参加なしに構築された。その参考資料として、ロックフェラー総合教育委員会の最初の使命記述書(マニュフェスト)の抜粋を紹介しよう。

-「特別書簡」番号1 (1906年)  - バカをつくる学校p88-89

 われわれの夢は、人びとがわれわれのつくる型におとなしく身を委ねることである。もはや現在の教育の慣習〔知的・人格的教育〕は色あせ、われわれは伝統に制約されることなく、人びとに善意をもたらし、その感謝と共感を得ることになる。

われわれは彼らやその子どもたちを哲学者や学者、科学者にするつもりはない。また、彼らの間から作家や教育者、詩人や文学者を育てるつもりもない。

われわれは彼らに偉大な芸術家や画家、音楽家の卵を求めるわけでも、弁護士や医師、牧師や政治家を求めるわけでもない。そうした者はもう十分にいるからだ。

われわれの使命はごく簡単である。子どもたちを組織化し、彼らの親が不完全な方法でやっていることを、彼らには完全な方法でやるように教えることだ。


-------------------------引用おわり-------------------------



《大学教育は世界を理解するための、効率的な手段である》

いかがだったろうか?教育制度はバカを生み出すシステムであり、子供たちは学校という洗脳機関から解放されるべきなのだろうか?実は私も高校時代は、学校や教育制度に疑問を持っており、読書や独学によって学ぶのがもっとも効率的であると思っていた。しかし、大学へ進学したことで、教育に対する見方が変わり、義務教育や基礎教育の重要性を理解することができた。

義務教育や高校時代は、暗記中心の学校教育に退屈しており、興味のある本を読み込んだり、NHKの教育番組やドキュメンタリー番組で独学を楽しんでいた。しかし、独学や書店に並んだ教養本を読むだけでは、闇雲に知識を習得することになり、本当に正しい知識を習得したのかを確かめることができない。

やはり世界について理解するためには、大学において指導経験を持った教授から、テキストの内容や意味を学ぶのが効率的である。それに大学教育のカリキュラムは何十年にも及んで蓄積してきたノウハウがあり、市場原理により学校や教員が淘汰され、優秀な学校にはブランドが付く。これと読書などの独学を組み合わせることで、統合的な知識を得ることができる。

残念ながら学校教育を否定するものや、陰謀論を唱えるものは、学校教育における知識(材料)が不足しており、世界を正しく理解することができていない。あるいは、大学や学校教育を否定する者は、大学を中退してビジネスを起こした人物が多いように思える。これは学校教育は学術研究や、世界や生物の構造を理解するためには役にたつが、ビジネスや対人関係においては、あまり役に立たないからであろう。

ビジネスや企業の上では、新しいアイデアを生み出す能力、相手を説得する営業能力、人を管理する人心掌握術が必要であり、学問に関する理論を学ぶことが目的である学校教育では習得することができない。また、ストレスへの対処法や、人間の生きる意味と言った、哲学や思想についても詳しく学ぶことができないのは、学校教育の欠点であろう。

しかし、学校教育の意義とは、「世界の歴史」「社会の仕組み」「物体の摂理」「生物の構造」を知ることで全体を理解し、自分が現在どの地点にいるのかを把握することにある。自然の摂理や社会の構造を知らずに生きることは、ルールも知らないままゲームをプレイするのと同様であり、ルールを熟知したベテランプレイヤーに負け続けることになるのだ。

つまり、一般教養レベルの義務教育しか習得できなかった人間は、特別な強みを持たない限り、一生誰かに利用され続ける労働者となる。彼らは生命時間を切り売りし、「時給あたりいくら」という評価基準によって賃金を得ている。金持ちと呼ばれる人達は、自分が考えたアイデアや商品を他人の労働によって形にし、時間労働者の労力によって販売することで莫大な富を築いている。つまり、「時間」や「肉体」を資本とする労働では、金持ちになることは非常に困難であり、「情報」を扱う労働でのみ、付加価値を生み出すことができる。

そして「付加価値」とは、既存の商品や知識、アイデアに「上乗せされた価値」であり、それを生み出すためには、「既存の情報」を徹底的に習得する必要があるのだ。それこそが学校教育であり、その基礎部分(それも極々基礎レベル)に当たるのが義務教育である。既存の知識を徹底的に学び、自分の現在位置を明確にした上で、新たな付加価値を想像する。そういった意味でも、大学教育は非常に重要であるのだ。(むしろ大学教育が基礎レベルと言える)

付加価値を提供できない単純労働者から抜け出すためには、既存の情報を徹底的に学ぶため、大学と同等かそれ以上の知識を、今からでも習得する必要がある。しかし、単純労働者が悪いと言っているのではなく、どんな人間でも現状に満足していれば、幸福な人間であるし、いくら金持ちであっても、現状に満足していなければ不幸と言える。現状に満足していないのであれば、何かを学び始めよう。人間は何歳からでも学習を始めることができるのだ。


 《問題は教育内容ではなくシステムにある》

私としては、義務教育における学習内容やカリキュラムには何の問題もなく、大学教育を学ぶための基礎を習得できる良いシステムだと思っている。むしろ学校教育の問題は、教育内容やカリキュラムにあるのではなく、教師による支配構造や、多種多様な人間であるはずの生徒に画一的な教育を施すというシステムの方であろう。つまり学校において使用される「教科書の内容」には問題がないが、「生徒を管理するシステム」が問題なのである。

学校において生徒は絶対的権力を持つ教師に支配され、各生徒の理解速度を考慮しないスピードで授業が展開していく。生徒は教えられた内容に疑問を持ったとしても、何度も教師に質問をすれば授業の妨害者として扱われ、最終的には「暗記するもの」として我慢をするか「学習することを放棄する」。これは大勢の生徒に対して、定められた期間において同時進行で授業を行うからであり、日本においては飛び級は認められない。

そして、生徒にはそれぞれ得意分野と不得意な分野があるが、得意分野で優越したとしても、全体のバランスが悪ければ評価はされない。ただこれについては、義務教育は専攻科目を選択するための時間でもあり、専門分野の基礎知識を習得するための時間でもあるため、全体的にバランス良く学ぶのがベターなのかもしれない。

また、最近注目される問題としては、学校や集団生活になじめない子供の存在である。彼らはADHDアルペルガー症候群と呼ばれ、こだわりが強い、忘れ物が多い、落ち着きがない、他人とは違った言動を取る、集団から孤立し、対人関係で問題を起こす、などの特徴を持つ。(もちろん人によって症状はかなり異なる)そしてこれらのADHDやアスペルガー症候群は、生まれつきの脳の障害とされている。

だが実際には集団における規律に対して疑問を持ち、場の空気を読まず、「自分の頭で考える人間の個性」を病気としているだけかもしれない。そもそも学校制度や義務教育が全国レベルで広まったのは、100年ほど前のことであり、それ以前は大半の人間が小規模なコミュニティにおいて活動していた。その後、学校、工場、企業といったような「集団が同じ空間において活動する場所」が誕生し、それ以前は単なる変わり者としか思われなかった人間が、病気として扱われるようになったのではないだろうか。(個人的には研究者は新しい分野を開拓することで評価されるため、研究者の都合で作り上げた概念だと思っている)

もし脳の病気であったとしても、現代においては必ずしも集団内で仕事をする必要がなく、フリーランスや個人事業主として個人で仕事を行うことも可能である。アスペルガー症候群の生徒が集団生活に馴染めないのだとすれば、個別塾やeラーニングで勉強を行う選択肢もある。個人レベルでの学習でも、自分の強みを作ることができれば、現代においては他人よりも成功する確率が上がるかもしれない。

実は歴史に残る偉業を成し遂げた人物にも、アスペルガー症候群や、ADHDと疑われる人物は多いのだ。例えば、ダヴィンチ、エジソン、スティーヴ・ジョブズ、ベンジャミン・フランクリン・坂本龍馬もアスペルガー症候群だと言われているが、説明するまでも無く、人類に多大な貢献をもたらした人物である。

エジソンに至っては、子供の頃に「物が燃える現象」を観察するために、藁を燃やしていたら納屋に延焼させてしまったというエピソードがある。他にも、教師が粘土を例にとって「1+1=2」を教えていたら「1個の粘土と1個の粘土を合せたら大きな一個の粘土になるだけではないのか?」と質問して教師を困らせるなどしていた。連日授業でこのような質問を繰り返したおかげで、エジソンは入学してからわずか三ヶ月で退学処分を受けてしまったのであった(笑)。

しかし、彼らのような集団生活に適応できない個性的な変人こそが、世界を変える偉大な業績を残すのかもしれない。しかし、彼らは学校教育については適応できなかったかもしれないが、類稀なる努力をしたのは事実である。カール・マルクスが「学問をするのに,簡単な道など無い。だから、ただ学問の険しい山を登る苦労をいとわない者だけが、輝かしい絶頂を極める希望をもつのだ」 と言い残したように、学問やビジネスにおいても楽な道など決して存在しないのだ。我々も偉大なモノを手に入れるために、時間や努力という代価を積極的に支払おう。


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